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春の悪臭
僕は春が嫌いだ。
そう呟いたとき隣の君は、意外ね、と首をかしげた。動きにつられて、真っ直ぐな黒髪がゆらり。甘く爽やかな香りがして、僕はつい目を背けてしまった。目をそらしたまま聞き返す。どうして僕が春を嫌いじゃいけないんだい?どうしてって、君は“もやし”だからよ。暑くたって寒くたって駄目でしょう?それはそうだけれど。こう見えて、夏は好きさ。何故?何故って……暫く沈黙が訪れた。海にも山にもいかない僕が、夏を好きでいい理由がなかったのだ。毎年夏休みはエアコンをガンガンに効かせた部屋にこもりきっていたのだから、夏の日差しなど浴びたか浴びていないか、というところだ。9月の1日には、小麦色の少年らに生っ白い肌をたいそう不気味がられては、三つ編みの女の子に庇われてきた。僕は、夏を知らない。生き生きとした生命の息吹も、キラキラと輝く水面を見て反射的に飛び込みたくなる衝動も知らない。なのに強く眩しく惹き付けるその季節の強さが、僕は無性に切なくなるのだった。同時に、愛しく感じたのだった。言葉につまった僕を見かねたように、彼女は缶ココアに口をつける。夏は、いいにおいがするわよね。春は臭いわ。なんとなく。それでしょう?敵わないな。春の悪臭。ツンと鼻をつくような、それでいてもやっと形のないような、中途半端で矛盾したにおいだ。暖かい陽気が運び込んだ、頼みもしない出会いや別れ。それがそんな悪臭となって、見慣れない世界を揺蕩う。たまらなく不愉快だった。だけど、花粉症じゃないんだからましじゃない。私はひどいわ。ああ、けれど急にかかることもあるらしいからね。実に厄介だ。そう、僕は花粉症じゃない。それもコンプレックスだった。春に出逢って恋をして、その相手はみなひどく鼻をすすっていた。そして僕に、辛そうじゃないわね、だとか、花粉症じゃないの?だとか尋ねてくる。その度に僕は、薬を飲んでいるんだ。とか、今の植物じゃなくてもう少し先なんだ。皆が落ち着きだした頃にひどいぞ、と見栄を張った。しょうもない。なんの見栄かはわからない。けれどもとにかく、ひとつでも相手の持ち物に合わせなければ興味を失われてしまうと怯えていたのだ。花粉症じゃないと僕がいって、ふーん。羨ましいわね。で終わることを思えば、使いもしないポケットティッシュのひとつやふたつ高くない。春には、悪いものが飛んでいるんだ。粘膜から吸収すると、皆頭がおかしくなってしまうような、そういう悪いものの臭いがするんだ。言わんとしていることは……なんとなくわかるわ。生暖かくてぞわぞわするのも、流した涙が妙に冷たいのも……私も春は嫌いよ。彼女は缶をきゅっと握り締める。その微かな震えが見逃せなくて、僕は自らの手を被せた。春はこういう季節だって、分かってた。それなのにどうしてこんなに辛いの。視界がぐらつくの。頭が真っ白になるの。胸の奥が痛いの。どうやったら楽になれる……虚ろな目でこちらを見つめる彼女の隣、僕にできる最適解が分からなかった。体が動かないし、声も出ない。彼女自身が不思議な力で僕を固めているのではないかと思うほどだった。どれほど時間が経っただろうか。何度目かの軽い口づけのあと。……僕の部屋に来るかい……?……あっ口にするつもりのない言葉だった。自分の喉から発せられ、自分と彼女の耳に届いてからようやく間違いに気がついた。いや、間違いではなかったのかもしれないけれど。驚いて目を丸くした彼女。プツンと糸が切れたように、その表情が柔らかく崩れた。ばーか。なに本気にしてるのよ、平気に決まってるでしょ。あんなやつ、惚れた私が恥ずかしいわよ。……ごめん。はなっから君に助けて貰うつもりはないの。ただ、話をしたかっただけ。……春の臭いが、嫌いな君と。そういって、彼女は残った缶ココアを一気に飲み干した。僕も飲み損ねていたコーヒーを流し込む。帰りましょう。深夜のコンビニ前でする話じゃなかったわね。立ち上がった彼女。あおられる風は春の悪臭。けれどその中に混じる爽やかな匂いが、好きな人の匂いが、どうしようもなく涙腺をつっついた。必死にこらえながら立ち上がったつもりで、アスファルトが1滴だけ色濃く染まった。彼女には気づかれていない。男は馬鹿だから。それでいいよ。当たり障りのないなぐさめだった。けれど彼女は心底面白そうに笑った。笑ってくれた。冷えきったスチール缶2本が、間抜けな金属音をたててゴミ箱に飛び込んだ。
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