匂いというものは、五感のうちで最も長く記憶に残りやすいらしい。
脳裏にこびりついたあらゆる香りは、再会する度過去の記憶を呼び覚ます。
まるで、逃れることのできない呪いのように。
[2 消毒液]
「自分を安売りしちゃダメだよ」
言葉に迷いながら不器用に私を諭す人がいた。
真夜中の病院ロビー。
誰もいない詰所から洩れた冷ややかな灯りに照らされて、茶色い瞳が私を真っ直ぐ見つめていた。
安売り。
それならテメェが高く買え。
そう思ったけれど、言わなかった。
私にとってその言葉は、告白と同義だった。
そして、その人はついにワゴンセールにすら手を出してくれなかった。
患者の私に対して、まして夜中に病室から飛び出して自嘲ぎみに命を絶とうとする訳の分からない少女に対して、看護師としての仕事を全うする以上の感情のあるはずがなかった。
私の知っている人の手は、決まって欲と興奮に熱を帯びていた。
なのに、心の底から好きだったその人だけは、夜勤疲れに冷えた手先の温度しか教えてくれないままお別れになった。
それでも彼はやさしい人で、私の指に自身の長い指を絡めて握りしめてくれた。
自暴自棄になった私が力任せにその何倍もの力をこめて握ったら、「大丈夫だよ」と存在を主張するかのように握り返してくれた。
その瞬間、涙を堪える余裕すらなくなって、日本語を覚えたての子供みたいなめちゃくちゃな文法で人生を嘆いた。
そんな時間が、何分も続いて。
私がついに何も言えなくなっても、涙がすっかり引いてしまっても、眠ってしまうギリギリまで黙って隣に居てくれた。
長く短い、冬の夜。
辺りには消毒液の刺激臭が立ち込めていた。
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