匂いというものは、五感のうちで最も長く記憶に残りやすいらしい。
脳裏にこびりついたあらゆる香りは、再会する度過去の記憶を呼び覚ます。
まるで、逃れることのできない呪いのように。
[3 緑茶]
窓の外が白く染まり始め、新聞配達のバイクが家の前を通り過ぎる。
ようやく朝が来た。
汗ばむくせにガタガタと震える体。
無造作に転がった薬の空き瓶。
口の中に、徐々に唾液が戻り始めていた。
9月の頭。
残暑どころか、まだまだ気分は夏真っ只中。ウインドウエアコンが低く唸っていた。白くしたばかりの壁に、2、3匹黒い縞蚊が目立った。
咳止めのエフェドリンで徹夜しなければ、午前の診察に間に合わないと分かっていた。
その日ですでに4日眠っていないことになる。
カロリーは薬の糖衣でしか摂取しておらず、低血糖でフラフラになりながらベッドから起き上がった。
相対性理論のアルバム「シフォン主義」を順に再生しながら、骨ばった白い手足に無香料の日焼け止めを塗る。
最近、「香り」がダメになってしまった。
香水どころか、制汗剤や石鹸の匂いでさえ気持ち悪くなってしまう。
けれど唯一、エリザベスアーデンのグリーンティーだけは拒絶反応を起こさなかった。
ちょうど体を壊す前に毎日付けていたので、慣れていたのかもしれない。
5ちゃんねるの咳止めスレッドで、市販薬常習者は独特の臭いがするという噂が飛び交っているのを見ていた。
事実かどうか自分ではわからなかったが、念のため一吹きして家を出た。
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そして、再びその香りを嗅いだのは、2月になってからだった。
17歳になってしまっていた。
思いの外少なく収まった荷物を引っ提げて半年ぶりに自室に戻ってくると、「グリーンティー」は9月のあの日のまま机の上に放置されていた。
そういやあの日、エアコン消していったっけ?
午後には帰ってくるはずだったから、付けっぱなしだったかもしれないな。
懐かしみながら、軽い気持ちで手の甲に吹きかけた。
真冬だというのに、その爽やかな香りを嗅いだ瞬間私の脳は過ぎ去った「夏」を取り返した。
体の芯まで熱いものが突き抜け、涙となって溢れてくる。
呼吸も上手く出来ないくらいの動悸がして、訳のわからない言葉を叫びたくなる衝動が襲ってきた。
夏、夏、夏。
蕁麻疹が出るくらい、強烈な夏の匂いだ。
声を上げて泣きながら手の甲を洗い流して、瓶を箱にしまい、引き出しの奥に封じ込めた。
私があの夏の痛みと、苦しみと、死と決別できたなら、またこの緑茶の匂いを嗅ぐことができるだろうか。
それとも再びその苦い記憶が呼び起こされて、号哭のうちに手放すだろうか。
夏が再びやってきても、まだ分からないでいる。
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呪いは、嗅げる。
(すべてフィクションです)
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