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狂気がレントゲンに写れば②
「私ね、ほんとは病気じゃないんだよね」
「え?」「坂本先生には、内緒にしててほしいんだけど」坂本医師は塚本さんの担当医だ。予想だにしない返しに、つい口止めを承諾してしまった。「私、本当は病気じゃないんです」さっきの言葉をもう一度はっきり反芻するように繰り返す。凛とした声が、静かな図書室を転がるように駆け抜けていった。彼女の口元は、自嘲ぎみな笑みを携えていた。ようやく本から顔を上げ、こちらを見据える。塚本さんはパジャマの胸ポケットから出したポラロイドの写真紙を栞代わりに挟み、ゆっくり頁を閉じた。本はミステリーらしかった。作者の名前はよく知らない外国人だった。「学校通うの、昔から面倒だったんです。たまに仮病で休んだりして。中学の三年になってみんなが塾に通ったりするようになってから、授業もなんだか間抜けなものになって。行く意味ないなって、自分から通うのやめたんです。高校も同じでした」「あのね、学校に通えなくなるのは立派に病気だと思っていいんだよ。何も君ひとりの責任じゃないんだ。だからこうして、みんなで治療してるんだよ」「ううん、違うんです。私はここの外来に来たときから、学校にいかなくていいように病気の格好をしていただけなんです。問診票もわざとネガティブな答えを書いて、眠れないって言ったんです。私、今も本当はお薬なんてなくって眠くなります」「詐病ってことかい?ダメだよそれは。なんで僕に話す気になったのかは知らないけど、ちゃんと坂本先生にも報告させてもらう」「話は最後まで聞いてください。......確かに、私は多分病気じゃないんです。最初のうちはそう自分でもわかってました。少しの間学校とか色んなことお休みできたらそれでよくって......けど、途中から本当に治療になってしまって、私も引っ込みがつかなくなってしまって一年が経ちました。その頃も入院したり毎週病院に通ったりお薬を飲んだりしてたんですけど、そのうちほんとに死にたくなってきたんです。嘘が嘘じゃなくなっちゃった。演技でやってた過呼吸も、最近は本当に息ができなくなっちゃったり、手首を切りたくなることもあります。今では病院の外に出るのも怖くて、学校にも社会にも復帰できる気がしません。怠け癖がついちゃったのかも、って思って退院したあとバイトしたりもしてみたんですけど、やっぱり人が怖いんです。当たり前だけど、ここは健康な人が来るとこじゃなかった。変なパワーが蔓延していて、それに飲み込まれてしまったんです、私」「......それならそれで、ちゃんと先生には相談しないと。起こりはどうあれ死にたい気持ちがあるうちは退院もさせられないし、場合によっては病棟を移ってもらったり、行動制限をかけることだってある。その症状はちゃんと先生に話してるかい?」「いちおう。だから今となっては単なる患者ですし、治療もちゃんと受けます。それで、患者になってしまった以上嘘ついてたのは時効でお願いします」「......わかった。今自分がしてしまったことと、今の病気と、ちゃんと向き合っているようだから。坂本先生に話すのは少し考えてみるよ。けど、やっぱり報告すべきだと判断したらその時は申し訳ないけどしかるべき対処を坂本先生から受けてね」「分かりました」少し不満げな顔をしつつも、彼女は小さくうなずいた。変なパワー。確かに、ここは健康な人が来る場所ではない。他の科の医師が用事に訪れても、嫌な顔をしながら入ってきて嫌な顔をしながら出ていく。窓に格子がはまっていること以外別段病棟の内装に大きな差異はないというのに、毎日精神科病棟から出ていくときはすうっと解放感を感じている節が私にもあった。逆に、病棟に入るときにはぐっと気を引き締めてなにかに耐える。可愛らしく清潔感のある病棟なのに、何故かどんより暗く感じることがある。今日のような雨の日はそれに拍車がかかった。所々で聞こえる叫び声、泣き声、慣れるまでは毎度毎度背筋が凍ったものだ。私は精神科医だ。他の科の医師であった場合と同じように、ときにそれ以上に、患者一人一人に向き合っていかなければいけない立場だ。それでもやはり、精神科病棟はなんだか特異な空気を感じとらざるを得ない。それは私が病人ではない証拠だろうか?鍵のかかった鉄扉から向こうにいる患者たちと何が違う。塚本さんの病状はどこまでが伊達でどこまでが酔狂だったのだろう。私は偉そうに指図していてよい立場なのだろうか?正しさってなんだろう。人はどこから狂人になるのだろう。しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
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